明智光秀は天海として生き延びたのかをめぐる諸説
天正10年(1582年)の本能寺の変後、山崎の戦いに敗れた明智光秀の最期については、近江国小栗栖付近で落命したとする見方が広く知られる一方、後年に江戸幕府で活躍した天台僧・天海と同一人物であったとする説をはじめ、各地に複数の生存伝承が語り継がれている。
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光秀は山崎の戦いに敗走した後、近江国小栗栖(現・京都市伏見区)付近で落ち武者狩りの土民に襲われて落命したと伝えられ、歴史学界ではこれが定説として扱われている。後述の天海同一人物説は同時代史料の裏付けを欠く俗説である。
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日光の地名「明智平」や東照宮の装飾に見られる桔梗紋、光秀の家臣の子孫とされる春日局が徳川家光の乳母を務めたことなどを根拠に、天台僧天海が光秀本人であったとする説が江戸期以来語られてきた。もっとも同時代史料による裏付けは全く存在せず、専門の歴史学者からは学術的に成立しない奇説と評価されており、俗説の域を出ない。
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岐阜県山県市には、家臣の荒木山城守行信が身代わりとなり、光秀は生まれ故郷とされる美濃国武儀郡中洞村に落ち延びて荒深小五郎と名乗り隠棲したとする地元伝承が残る。地域に伝わる言い伝えであり、学術的な裏付けを持つものではない。
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山崎の戦いや小栗栖での最期の場面に影武者が関与し、実際の光秀の生死や足取りが後世に混同・仮託されたとする説も各地の生存伝承の中に見られる。いずれも史料的な検証を経たものではなく、後世の物語的な脚色とみられる。
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