光緒帝の死の真相と実行者をめぐる諸説
清朝第11代皇帝・光緒帝は1908年11月、西太后の死のわずか1日前に34歳で急死した。2008年に発表された遺髪・遺骨の科学的分析により、体内から致死量をはるかに上回る三酸化ヒ素が検出され、急性ヒ素中毒による毒殺であったことはほぼ確実視されている。一方、誰がその毒を盛ったのかという実行者については、西太后説、宦官・李蓮英説、袁世凱説などが並立し、決定的な証拠がないまま今も特定されていない。
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死期を悟った西太后が、自らの死後に光緒帝が政治の実権を握り戊戌政変以降の路線を覆すことを恐れ、毒殺を命じた、または黙認したとする説。光緒帝が西太后の死のわずか1日前に急死したという時期の一致から、最も有力視される見方である。
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西太后の寵臣であった宦官・李蓮英が、後ろ盾である西太后の死後に光緒帝から報復を受けることを恐れ、先手を打って毒殺したとする説。中国第一歴史档案館の研究者・李国栄も可能性のある説の一つとして挙げている、有力な異説である。
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戊戌の政変(1898年)で光緒帝の改革派を裏切り西太后側についた袁世凱が、光緒帝の復権後の報復を恐れて毒殺したとする説。清朝最後の皇帝・溥儀の自伝などが唱えるが、当時袁世凱が宮中で毒を盛ることは困難だったとして学者の間では犯行が不可能だったとする見方が一致しており、学術的には少数説にとどまる。
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