西太后

西太后の肖像
君主 明・清王朝
時代近代
王朝明・清王朝
在位1861年〜1908年

在位 47年長期在位ランキング 歴代 8位/全49名

清朝末期に権勢を振るった皇太后。 戦乱で焼失した離宮を再建させ、現在の頤和園として残されている。

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この人物をめぐる諸説

光緒帝の死の真相と実行者

清朝第11代皇帝・光緒帝は1908年11月、西太后の死のわずか1日前に34歳で急死した。2008年に発表された遺髪・遺骨の科学的分析により、体内から致死量をはるかに上回る三酸化ヒ素が検出され、急性ヒ素中毒による毒殺であったことはほぼ確実視されている。一方、誰がその毒を盛ったのかという実行者については、西太后説、宦官・李蓮英説、袁世凱説などが並立し、決定的な証拠がないまま今も特定されていない。

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人物解説

1835年に生まれ、清の第9代皇帝咸豊帝の妃となり、同治帝を産んだ。1861年、夫の死後に起きた辛酉政変で恭親王奕訢と結んで政敵を退け、東太后とともに垂簾聴政による摂政を実現した。以後、実子の同治帝、次いで甥にあたる光緒帝の治世を通じて長期にわたり清朝の実権を握り続けた。1898年、光緒帝が進めた変法を弾圧して頓挫させた戊戌の政変では、光緒帝を瀛台に幽閉して実権を奪った。1900年には義和団事件が起こり列強の連合軍が北京に迫ると、光緒帝を伴って西安へ逃れたが、のちには光緒新政と呼ばれる改革を自ら主導し、科挙の廃止など近代化にも着手した。戦乱で焼かれた離宮の造営にも巨費を投じ、その広大な庭園・宮殿群は現在頤和園として知られ、のちにユネスコの世界文化遺産にも登録された。1908年、光緒帝の死の翌日に死去し、生前に定めた幼い溥儀が後を継いだ。光緒帝の死をめぐっては毒殺を疑う見方もあるが、真相は諸説ある。

家系図

年表

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出典・このページについて

最終更新: 2026年8月27日

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