本能寺の変の動機・黒幕をめぐる諸説
天正10年(1582年)6月2日未明、家臣・明智光秀の軍勢が京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲し、信長は自害に追い込まれた。光秀自身が動機を語った史料は残っておらず、江戸時代以来「怨恨説」「野望説」や黒幕の存在を疑う説など複数の説が唱えられてきた。2014年に発見された「石谷家文書」を機に、近年は「四国説」が学術研究で有力視されているが、確定的な結論には至っていない。
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光秀が取次役を務めていた長宗我部元親との外交関係を、信長が三好康長を優遇する形で一方的に転換し、四国への出兵を命じたことが謀反の引き金になったとする説。2014年に発見された「石谷家文書」により、光秀の家臣・斎藤利三の兄で元親の縁戚でもある石谷頼辰を介した両者の緊密な関係が裏付けられ、近年の学術研究で有力視されている。
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光秀自身が天下統一を志し、好機ととらえて謀反に及んだとする説。本能寺の変直前に光秀が催した連歌会「愛宕百韻」の発句「ときは今 天が下しる 五月哉」を、光秀の出自とされる土岐氏にかけた天下取りの決意表明と解釈することが根拠とされる。ただし発句の解釈には異論もあり、確定的な証拠ではない。
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徳川家康の饗応役を務めていた光秀が信長から叱責され解任されたことや、旧領を召し上げられたことへの個人的な恨みが謀反の動機になったとする、江戸時代から広く語られてきた説。根拠となる逸話の多くは同時代史料になく、江戸初期の軍記物『川角太閤記』などに由来するため、近年の学術研究では後世の脚色を含む俗説寄りの説とみる見方が主流となっている。
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追放された室町幕府15代将軍・足利義昭や朝廷、徳川家康らが光秀と通じ、信長打倒を裏で指示していたとする説。光秀の書状などが根拠として挙げられることもあるが、いずれも状況証拠の域を出ておらず、学術的には光秀単独の決断とする見方に対する確定的な反証には至っていない俗説的な位置づけとされる。
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