織田信長

織田信長の肖像
武将・軍人
時代近世
種別武将・軍人
生没年1534年〜1582年

生涯 48年長寿ランキング 歴代 43位/全65名

尾張出身の戦国大名。桶狭間の戦いで勝利し、天下統一事業を大きく推し進めた。

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この人物をめぐる諸説

本能寺の変の動機・黒幕

天正10年(1582年)6月2日未明、家臣・明智光秀の軍勢が京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲し、信長は自害に追い込まれた。光秀自身が動機を語った史料は残っておらず、江戸時代以来「怨恨説」「野望説」や黒幕の存在を疑う説など複数の説が唱えられてきた。2014年に発見された「石谷家文書」を機に、近年は「四国説」が学術研究で有力視されているが、確定的な結論には至っていない。

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織田信長の遺体の行方

1582年の本能寺の変で織田信長は自害したが、その遺体は今日に至るまで発見されていない。豊臣秀吉方は変後に本能寺跡を捜索したものの遺体を確認できず、葬儀では木像を代わりに用いたと伝わる。遺体が見つからなかった理由については、火災で完全に灰燼に帰したとする説や、多数の焼死体の中で識別が不可能だったとする説、家臣や僧侶が密かに運び出し別の場所に葬ったとする伝承など、諸説が唱えられている。

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この偉人が登場するバトル

人物解説

1534年、尾張の小大名織田家に生まれた。家督をめぐる一族内の争いを制して尾張を統一し、1560年の桶狭間の戦いで大軍を擁する今川義元を破って名を上げた。その後徳川家康と同盟を結んで東方を固めつつ美濃を攻略し、「天下布武」の印判を用いて統一事業への意志を示した。将軍足利義昭を奉じて上洛したのち対立し、1573年に義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼした。石山本願寺を中心とする一向一揆や比叡山延暦寺の勢力とも長年にわたり戦い、1571年には比叡山を焼き討ちした。1575年の長篠の戦いでは鉄砲を効果的に用いて武田軍を破り、支配地では楽市楽座や関所の撤廃によって商工業の振興を図った。キリスト教の布教にも比較的寛容な姿勢を示した。1576年から安土城を築いて拠点とし、天下統一事業を大きく前進させたが、1582年、上洛の途上の本能寺において家臣明智光秀の謀反に遭い、49歳で自害した。

師弟・影響

生涯・年表

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出典・このページについて

最終更新: 2026年8月27日

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