関ヶ原の戦い 西軍敗因と小早川秀秋の裏切りの真相をめぐる諸説
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍はわずか半日で敗れたとされる。敗因としては小早川秀秋の東軍への寝返りが古くから語られてきたが、寝返りの時期や決め手、毛利勢不参戦や西軍内部の結束の弱さとの比重については研究者の間でも見方が分かれ、単一の定説には至っていない。
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松尾山に布陣していた小早川秀秋が戦闘の途中で東軍側に寝返り、大谷吉継隊の側面を突いたことが西軍瓦解の直接の引き金になったとする理解は、古くから最も広く語られており、通説として定着している。
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徳川家康が小早川陣に威嚇射撃をして寝返りを促したという問い鉄砲の逸話は一次史料に見えず、後世の軍記物による脚色である可能性が近年の研究で指摘されている。秀秋は開戦前から東軍への内応を固めていたとする見方が示される一方、なお威嚇射撃の史実性を論じる研究者もあり、学界の決着はついていない。
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南宮山に布陣した毛利秀元・吉川広家ら約3万の大軍が終始戦闘に加わらなかったことも西軍敗因の柱の一つとされる。広家が徳川方と内応し毛利勢の進路を事実上塞いだためとされ、小早川の寝返りと並ぶ主要因として重視する見方がある。
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西軍は反家康の諸大名による連合体で一枚岩ではなく、島津や宇喜多といった主力の諸隊も家中の弱体化や足並みの乱れを抱えていたとする指摘がある。個々の裏切りだけでなく、こうした連合体ゆえの組織的な弱さを敗因の背景として重視する見方だが、個別の裏切りに比べると解釈的な色合いが強い指摘である。
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