石田三成

石田三成の肖像
武将・軍人
時代近世
種別武将・軍人
生没年1560年〜1600年

生涯 40年長寿ランキング 歴代 50位/全65名

豊臣秀吉に見出され五奉行の一人として政権の実務を支えた近江出身の武将。秀吉没後は豊臣家への忠義を貫き、徳川家康打倒を掲げて関ヶ原の戦いで西軍の中心として戦ったが敗れ、京都で処刑された。

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この人物をめぐる諸説

関ヶ原の戦い 西軍敗因と小早川秀秋の裏切りの真相

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍はわずか半日で敗れたとされる。敗因としては小早川秀秋の東軍への寝返りが古くから語られてきたが、寝返りの時期や決め手、毛利勢不参戦や西軍内部の結束の弱さとの比重については研究者の間でも見方が分かれ、単一の定説には至っていない。

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この偉人が登場するバトル

人物解説

近江国の武将の家に生まれる。豊臣秀吉に才覚を見いだされて仕え、五奉行の一人として検地や蔵入地の管理など豊臣政権の実務を担った。行政や兵站に優れた官僚型の武将として知られ、秀吉の天下統一事業を財政・実務の面から支えた。秀吉の死後、勢力を強める徳川家康に対抗して諸大名を糾合し、1600年の関ヶ原の戦いで西軍の中心となって戦った。しかし小早川秀秋らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、三成は敗走の末に捕らえられた。京都の市中を引き回されたのち、六条河原で処刑された。義理堅く豊臣家への忠義を貫いた人物と評される一方、諸将との折り合いに難があったとも伝えられる。その生涯は後世さまざまに再評価されている。

師弟・影響

生涯・年表

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出典・このページについて

最終更新: 2026年8月26日

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