石田三成

豊臣秀吉に見出され五奉行の一人として政権の実務を支えた近江出身の武将。秀吉没後は豊臣家への忠義を貫き、徳川家康打倒を掲げて関ヶ原の戦いで西軍の中心として戦ったが敗れ、京都で処刑された。
みんなの評価(★5段階・軸ごとに投票できます)
この人物をめぐる諸説
関ヶ原の戦い 西軍敗因と小早川秀秋の裏切りの真相
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍はわずか半日で敗れたとされる。敗因としては小早川秀秋の東軍への寝返りが古くから語られてきたが、寝返りの時期や決め手、毛利勢不参戦や西軍内部の結束の弱さとの比重については研究者の間でも見方が分かれ、単一の定説には至っていない。
あなたが支持する説は?(クリックで投票/変更できます)
-
松尾山に布陣していた小早川秀秋が戦闘の途中で東軍側に寝返り、大谷吉継隊の側面を突いたことが西軍瓦解の直接の引き金になったとする理解は、古くから最も広く語られており、通説として定着している。
-
徳川家康が小早川陣に威嚇射撃をして寝返りを促したという問い鉄砲の逸話は一次史料に見えず、後世の軍記物による脚色である可能性が近年の研究で指摘されている。秀秋は開戦前から東軍への内応を固めていたとする見方が示される一方、なお威嚇射撃の史実性を論じる研究者もあり、学界の決着はついていない。
-
南宮山に布陣した毛利秀元・吉川広家ら約3万の大軍が終始戦闘に加わらなかったことも西軍敗因の柱の一つとされる。広家が徳川方と内応し毛利勢の進路を事実上塞いだためとされ、小早川の寝返りと並ぶ主要因として重視する見方がある。
-
西軍は反家康の諸大名による連合体で一枚岩ではなく、島津や宇喜多といった主力の諸隊も家中の弱体化や足並みの乱れを抱えていたとする指摘がある。個々の裏切りだけでなく、こうした連合体ゆえの組織的な弱さを敗因の背景として重視する見方だが、個別の裏切りに比べると解釈的な色合いが強い指摘である。
※「支持度」は学術的な位置づけの目安です。投票結果は学説の正しさを示すものではありません。
この偉人が登場するバトル
人物解説
師弟・影響
- 主:豊臣秀吉
生涯・年表
- 1583年 賤ヶ岳の戦い後、豊臣秀吉に仕え台頭
- 1590年 小田原征伐に従軍
- 1595年 近江佐和山城主となる
- 1600年 関ヶ原の戦いで西軍を主導し敗北
- 1600年 六条河原にて処刑される
この偉人の伝記・関連書籍 PR
※楽天ブックスの検索結果への広告リンクです。
同じ時代の人物 ▶ 近世の偉人をすべて見る
出典・このページについて
最終更新: 2026年8月26日
本ページは、公開されている歴史資料・百科事典等をもとに偉人ラボ編集部が作成した参考情報です。年代・事績には諸説ある場合があります。正確な情報は各一次資料・公式情報をご確認ください。
さらに詳しく:Wikipediaで「石田三成」を調べる / 運営者情報:運営元について