武田信玄

甲斐の戦国大名で「甲斐の虎」と称された。上杉謙信との川中島の戦いや卓越した領国経営で知られる。
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この人物をめぐる諸説
武田信玄の死因
天正元年(1573年)、上洛途上の武田信玄は信濃駒場で没した。享年53。侍医の書状などから持病の悪化による病死とみる見方が有力だが、具体的な病名や、野田城攻めの際に狙撃されたとする逸話の真偽については史料が乏しく、今なお定説が確立していない。
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信玄には持病があり、侍医の書状には肺の不調を示す記述が残る。晩年に度々喀血がみられたとされ、労咳(肺結核)による衰弱死とする見方が古くから広く知られており、通説として扱われることが多い。
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軍学書『甲陽軍鑑』の記述を根拠に、胃または食道の腫瘍性疾患による病死とみる説がある。喀血や衰弱の経過が消化器系疾患の症状と合致するという指摘もあり、病死説の中でも有力な異説とされる。
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侍医の書状にある肺肝の不調という記述を、寄生虫感染による肝機能障害と結びつけて解釈する医学的仮説。当時の甲斐地方に流行があったかを示す史料は確認されておらず、少数説の域にとどまる。
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三河の野田城を攻囲中、笛の音に誘われて城に近づいた信玄が城方の鉄砲で撃たれ、それが死因になったとする言い伝え。愛知県新城市には狙撃地点とされる場所が伝承として残るが、史料的根拠は乏しく俗説とされる。
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川中島の戦い「一騎討ち」は史実か
永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦は、武田信玄と上杉謙信による唯一の直接対決として語られ、両将の一騎討ちの逸話が広く知られる。ただし当時の一次史料に乏しく、誰が誰に斬りかかったかを含め、後世の軍記物による脚色の可能性が指摘されている。
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一騎討ちを裏付ける同時代の一次史料は確認されておらず、成立の遅い軍記物にのみ見られること、総大将自らが単騎で斬り込むのは当時の軍事の常識に反することから、後世に付加された脚色とみるのが現在の歴史学ではおおむね定説的な見方となっている。
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武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』には、白頭巾の謙信が名馬に乗り信玄に斬りかかり、信玄が軍配でこれを受けたとする場面が描かれる。最も広く知られ後世の物語や作品に踏襲されてきた描写だが、学術的な裏付けは乏しく、そのまま史実とは見なされていない。
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江戸期成立の『上杉家御年譜』では、信玄に斬りかかったのは謙信本人ではなく家臣の荒川伊豆守だったとする異伝が伝えられ、斬りかかった人物が甲陽軍鑑の描写と異なる。
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上杉方に伝わる記録では、一騎討ちの舞台を千曲川支流の御幣川とし、馬上ではなく川中での太刀打ちとして描くなど、甲陽軍鑑の描写とは細部が大きく異なる。
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この偉人が登場するバトル
人物解説
師弟・影響
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生涯・年表
- 1541年 父信虎を追放し家督を継ぐ
- 1553年 上杉謙信と第一次川中島の戦い
- 1561年 第四次川中島の戦い
- 1572年 三方ヶ原の戦いで徳川家康を破る
- 1573年 上洛の途上、信濃駒場で病没
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出典・このページについて
最終更新: 2026年8月26日
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