コンスタンティヌス1世

コンスタンティヌス1世の肖像
君主 ビザンツ帝国
時代古代
王朝ビザンツ帝国
在位306年〜337年

在位 31年長期在位ランキング 歴代 18位/全49名

キリスト教を公認した皇帝。 帝国の首都をビザンティウムに移し、その地は後に自らの名にちなみコンスタンティノープルと呼ばれた。

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この人物をめぐる諸説

コンスタンティヌス1世のキリスト教公認・改宗の動機

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は312年のミルウィウス橋の戦いを前後してキリスト教を庇護する政策へ転じ、313年のミラノ勅令で信教の自由を認めた。この転換が本人の真摯な信仰の表れだったのか、帝国統治のための政治的判断だったのか、あるいは両者が入り混じった漸進的な過程だったのかを巡り、古代末期史研究では今なお議論が続いている。

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人物解説

本名はフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス。父は正帝コンスタンティウス1世(クロルス)で、母はのちに聖人とされるヘレナである。306年、ブリタニアのエボラクム(現ヨーク)で父の死に際して軍に擁立され、副帝を称した。以後、テトラルキア(四帝統治制)の崩壊に伴う内乱を勝ち抜き、312年のミルウィウス橋の戦いで政敵マクセンティウスを破って西方の単独皇帝となった。この戦いの前夜、十字架状の光を見たとの逸話も伝えられる。313年には共同皇帝リキニウスと結んでミラノ勅令を発し、キリスト教を含む信教の自由を認めた。324年にリキニウスを破って帝国を再統一すると、325年にはニカイア公会議を招集して教義の統一を図った。330年、ビザンティウムを新首都と定めてこれを大規模に整備し、後に自らの名にちなみコンスタンティノープルと呼ばれるようになった。通貨改革や行政機構の整備も進め、337年、死の間際に洗礼を受けたと伝えられ、その生涯を閉じた。

家系図

年表

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出典・このページについて

最終更新: 2026年8月27日

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