今川義元

駿河・遠江・三河の三国を治めた戦国大名で「海道一の弓取り」と称された。1560年、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた。
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この人物をめぐる諸説
桶狭間の戦いの実態
1560年、尾張に侵攻した今川義元の大軍を、劣勢だったはずの織田信長がわずかな兵力で急襲し義元を討ち取った桶狭間の戦い。江戸時代以来、油断していた義元の本陣を信長が迂回して奇襲したと語られてきたが、一次史料『信長公記』を重視する現代の研究では、信長が正面から攻めかかったとする見方が有力視されている。義元が撤退中の軍勢と遭遇して交戦したとする説もあり、勝因を巡る議論は今も続いている。
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江戸時代初期に成立した小瀬甫庵『信長記』は、善照寺砦を出た信長が、田楽狭間の窪地で休息していた今川義元本隊の所在を事前に把握し、豪雨に紛れて密かに迂回したうえで奇襲をかけて義元を討ったと伝える。この劇的な筋立ては広く普及し長く定説として語られてきたが、一次史料『信長公記』の記述と整合しないとして、現代の研究では否定的にみられることが多くなっている。
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信長の家臣太田牛一による一次史料『信長公記』には、信長が中嶋砦に入って今川軍の在陣を確認し、豪雨がやんだ後に接近して正面から攻撃をしかけたとする記述がある。信長が「敵は疲れている」と部下に述べたとされる場面から、義元の所在を事前に把握していなかった可能性も示唆されており、歴史家の藤本正行氏らはこれを重視して正攻法による勝利だったと唱え、現代の研究者の間で有力視されている。
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『三河物語』等を重視する見方では、義元は大高城の解放後、三河への撤退を進める中で高根山やおけはざま山へ本陣を移していたところ、嵐に紛れて接近した信長の軍勢と正面から遭遇し交戦の末に討ち取られたとされる。周到に計画された奇襲というより両軍の偶発的な遭遇の要素を重くみる見方であり、少数説として提示されている。
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今川義元の人物像の再評価
駿河・遠江・三河を治め戦国今川氏の最大版図を築いた今川義元は、1560年の桶狭間での敗死もあって、公家風の身なりを好み軍事に疎い軟弱な大名として長く語られてきた。しかし1553年に制定した今川仮名目録追加21条にみられる統治能力や、同時代人による高い評価を根拠に、有能な戦国大名として義元を見直す研究が進んでおり、その人物像を巡る評価は今なお一致していない。
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江戸時代中期以降に成立した記述類から、輿に乗り騎乗できなかった、肥満していた、公家風の化粧や振る舞いを好んだ等の逸話が広まり、桶狭間での敗死という結果とも結びついて「公家かぶれで軟弱な大名」というイメージが強く定着した。後世の歴史小説や時代劇でもこの人物像が繰り返し描かれ、広く共有される通説的な理解となっている。
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義元は天文22年(1553年)に「今川仮名目録追加21条」を制定し、今川領国の秩序を維持するのは室町幕府ではなく今川氏自身であるとする方針を明確にしたほか、商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化など統治体制の整備を進めた。こうした内政面の実績を重視し、義元を軟弱な大名ではなく高い統治能力を備えた戦国大名として見直す評価が近年有力になっている。
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越前朝倉氏の軍師朝倉宗滴は『朝倉宗滴話記』の中で、義元を「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべく人」と評し、武田晴信(信玄)や織田信長らと並ぶ人物として挙げている。同時代人による直接の証言という点で貴重な史料だが、単独の言及にとどまることもあり、これのみを根拠に人物像全体を再構成する見方は現時点では少数説にとどまる。
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人物解説
師弟・影響
- 従:徳川家康
生涯・年表
- 1536年 花倉の乱を制し今川家当主となる
- 1554年 甲相駿三国同盟を締結
- 1558年 分国法「今川仮名目録追加」を制定
- 1560年 桶狭間の戦いで織田信長に敗死
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出典・このページについて
最終更新: 2026年8月27日
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