今川義元

今川義元の肖像
武将・軍人
時代近世
種別武将・軍人
生没年1519年〜1560年

生涯 41年長寿ランキング 歴代 49位/全65名

駿河・遠江・三河の三国を治めた戦国大名で「海道一の弓取り」と称された。1560年、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた。

現在の推し 0まだ「推し」がありません。最初のひと押しを!

みんなの評価(★5段階・軸ごとに投票できます)

総合 平均 0件)最初の☆評価を!
功績 平均 0件)最初の☆評価を!
知名度 平均 0件)最初の☆評価を!
カリスマ 平均 0件)最初の☆評価を!

この人物をめぐる諸説

桶狭間の戦いの実態

1560年、尾張に侵攻した今川義元の大軍を、劣勢だったはずの織田信長がわずかな兵力で急襲し義元を討ち取った桶狭間の戦い。江戸時代以来、油断していた義元の本陣を信長が迂回して奇襲したと語られてきたが、一次史料『信長公記』を重視する現代の研究では、信長が正面から攻めかかったとする見方が有力視されている。義元が撤退中の軍勢と遭遇して交戦したとする説もあり、勝因を巡る議論は今も続いている。

あなたが支持する説は?(クリックで投票/変更できます)

※「支持度」は学術的な位置づけの目安です。投票結果は学説の正しさを示すものではありません。

「桶狭間の戦いの実態」の諸説・出典を詳しく →

今川義元の人物像の再評価

駿河・遠江・三河を治め戦国今川氏の最大版図を築いた今川義元は、1560年の桶狭間での敗死もあって、公家風の身なりを好み軍事に疎い軟弱な大名として長く語られてきた。しかし1553年に制定した今川仮名目録追加21条にみられる統治能力や、同時代人による高い評価を根拠に、有能な戦国大名として義元を見直す研究が進んでおり、その人物像を巡る評価は今なお一致していない。

あなたが支持する説は?(クリックで投票/変更できます)

※「支持度」は学術的な位置づけの目安です。投票結果は学説の正しさを示すものではありません。

「今川義元の人物像の再評価」の諸説・出典を詳しく →

この偉人が登場するバトル

人物解説

駿河守護今川氏親の子として生まれ、早くに仏門に入っていたが、兄氏輝の急死後に異母兄弟玄広恵探と争った家督争い「花倉の乱」を制して当主の座に就いた。太原雪斎の補佐を受けながら、1554年には縁組みも通じて甲斐の武田氏・相模の北条氏と結び、甲相駿三国同盟を成立させて東からの脅威を取り除き、西の三河方面へ勢力を伸ばした。父の代からの分国法を21か条にわたり増補した今川仮名目録追加を制定し、検地や商業統制を通じて領国経営を整えたことでも知られる。駿府の館には京から嫁いだ母寿桂尼の縁もあって公家文化が取り入れられ、和歌や蹴鞠が盛んに行われたと伝えられる。1560年、大軍を率いて尾張へ進軍したが、桶狭間で織田信長の急襲を受けて討ち死にした。この敗死により今川氏の権威は大きく揺らぎ、諸将の離反が相次いだ。跡を継いだ子の氏真は求心力を保てず、今川氏はほどなく戦国大名としての実権を失った。

師弟・影響

生涯・年表

この偉人の伝記・関連書籍 PR

※楽天ブックスの検索結果への広告リンクです。

同じ時代の人物 ▶ 近世の偉人をすべて見る

出典・このページについて

最終更新: 2026年8月27日

本ページは、公開されている歴史資料・百科事典等をもとに偉人ラボ編集部が作成した参考情報です。年代・事績には諸説ある場合があります。正確な情報は各一次資料・公式情報をご確認ください。

さらに詳しく:Wikipediaで「今川義元」を調べる  / 運営者情報:運営元について

← 偉人一覧へ戻る 人気ランキング →